蚯蚓鳴く(みみずなく)

三秋・動物/蚯蚓には発音器官はなく鳴かない。夜どこからともなく聞こえてくるジーッという音を蚯蚓が鳴いているといったが、実際には螻蛄けらの鳴き声。「亀鳴く」「蓑虫鳴く」などと同様、空想的、浪漫的な季語として俳人に好まれている。


みみず鳴く日記はいつか懺悔ざんげ録  上田五千石


おけらが鳴いているという、あのジーッという耳鳴りのようなへんな音は、私の記憶では秋というより5月頃、日中は汗ばむような陽気になってきたころの夜にきこえてくると思うのだが、秋の季語になっている。ネットなどで調べてみても、おけらは初夏によく鳴くとの記述がみられる。

そもそも季語としては蚯蚓が鳴いていることになっているわけだし、この句の場合も、初夏というより、すこし冷たい秋風が吹きはじめた夜、ひとり机に向かってちまちまとした字で日記を書きつけている人物をイメージする。

日記って、基本的には毎日つけるものだろうけれど、楽しかったり、うれしかったりしたこと、そういうたわいない記録ではなくて、気がついたら懺悔ばかりつづっていたなんて、いったいどうしたことだろう。悪人というより、内省的な小心者か。

ジーッという蚯蚓の声が耳にこびりついて離れない。まるで自分を責めているかのよう。その不快な声の向こうに、なんとか主の声を聴こうとして、日記を前に耳を両手でふさいでいるひとりの男が見えてくる。


上田五千石(うえだごせんごく)1933-1997年。東京生まれの俳人。秋元不死男に師事。「畦」を創刊・主宰。


障子貼る(しょうじはる)

仲秋・人事/夏の間涼をとるためはずしてあった障子を秋になってもどすとき、紙を貼り替えること。貼り上げた障子は純白ですがすがしい。部屋のなかが明るくなり、気分も新たになる。


貼り終へて母は障子の向う側  今瀬剛一


障子のある家に住んでいたとき、両親と一緒に貼り替えたことがある。めんどうくさかったけれど、黄ばんだ紙が白くなると、気持ちもさっぱりとして、部屋に入る光もうつくしく新鮮な感じがした。

この句の母は病弱で臥せっているのかもしれない。すこしでも気分を上向かせようと、母の部屋の障子も思いきって貼り替えることにした。

作業をしている庭から見やる母はしずかに目をつむっている。貼り終えた障子を敷居にもどし、そっと閉める。

寝息をたてているわけではないけれど、障子ごしにもなんとなく母の気配が伝わってくる。早く起きられるようになるといいのだが。

障子を開けた部屋から、秋の草花が明るくゆれる庭をながめる母の姿を思い描いてみる。


今瀬剛一(いませごういち)1936年、茨城県生まれの俳人。能村登四郎に師事。「対岸」を創刊・主宰。

 


曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

仲秋・植物/ヒガンバナ科の球根植物。堤防や畔、墓地などに生える。秋の彼岸のころ50センチほどの花茎を1本のばし、真っ赤な花を輪状につける。葉は花後に叢生し翌春に枯れる。曼珠沙華は天界に咲く赤い花を表す梵語。全草有毒。


死ぬときは火柱たてて曼珠沙華  石飛如翠


一瞬、火葬場で遺体が焼かれるのを思ったのだが、「死ぬときは」であって、「死んだあと」ではない。後者では凡句になってしまう。

だれかを看取るにしても、自身の最期にしても、眠るように、しずかに、おだやかにと願うのがふつうだろう。ともしびが消えるというイメージに対して、「火柱たてて」とはあまりに烈しいではないか。

火柱は高く、もっと高く、そして赫く、もっと赫く。やがて衰えても曼珠沙華がなお燃えつづけるほどに、熱く、強く、いまを生きたいという切なる思いか。


石飛如翠(いしとびじょすい)1919年、島根県生まれの俳人。 




敬老の日(けいろうのひ)

仲秋・人事/9月の第3月曜日。国民の祝日。多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日とされる。


理髪椅子神父をのせて敬老日  朝倉和江


理髪店の椅子に座らなくなって久しい。自分で髪を切るようになったからだ。

よくよく考えてみると、あの椅子に座るのって怖くないだろうか。

髪に鋏を入れられたり、顔に剃刀をあてられたり、耳かきまでするところだってある。そんなことをよく知りもしない他人に任せてしまってよいものかどうか。そこには幾許かは信頼関係なるものがほしい。

まあ、そこまでつきつめないにしても、自分の好みに仕上げてくれる理髪店をみつけ、長くつきあうのは案外むずかしい。よって、あの椅子からは遠ざかっていまに至る。

この句の神父さんは、教会で厳かに祭壇に立つ近づきがたい神父ではなく、ユーモアを交えた説教で笑いをさそうような、親しみやすい好々爺のような人を思い浮かべる。

ちいさなまちの通いなれた理髪店。椅子に座れば勝手にいつもの長さに整えてくれる。

店主は信者ではないけれど、神父さんに支えられて日々生きているお客さんを何人も知っている。このまちにはなくてはならない人だと尊敬の念をいだいている。

きょうは敬老の日だから割引だと店主がいう。神父さんは禿頭に手をやりながら、それほどお手間をとらせてはいないでしょうからありがたく、と返して支払いをすませると、ありがとうとにっこり笑っておだやかな陽のさす通りへ出ていった。


朝倉和江(あさくらかずえ)1934-2001年。大阪府生まれの俳人。水原秋櫻子・下村ひろしに師事。「曙」主宰。 




燕帰る(つばめかえる)

仲秋・動物/春に渡ってきて繁殖した燕は9月頃、群れをなして海を越え、フィリピンやインドネシア、マレーシアなどで越冬する。軒下に巣が残され、さみしさを感じる。


ひたすらに飯炊く燕帰る日も  三橋鷹女


あれやこれや忙しい日々を送るなか、軒下で懸命に子育てする燕の姿を見守るのは楽しみのひとつだった。

巣立った燕たちは、しばらくはそのへんを飛びまわっていたのだろうが、いつのまにかもう見かけることもなくなった。

あらためて見上げたからっぽの巣。なんだか置いてけぼりにされた気分。

あの子たちはいまごろどこを旅しているのだろう。わたしもこの家を離れて、どこか知らないまちの空をながめてみたい――。

ふとよぎった思いを追い払うように頭をふりふり家に入ると、きょうも台所に立って夕飯の支度を始める。

これからも毎日、くる日もくる日も、自分のため家族のため飯を炊くのがわたしの日常だ。

燕は燕、わたしはわたしをつづけていくだけ。そう自分に言い聞かせながら。


三橋鷹女(みつはしたかじょ)1899-1972年。千葉県生まれの俳人。原石鼎・小野蕪子に師事。橋本多佳子、中村汀女、星野立子らと同時代に活躍した。 





待宵(まつよい)

仲秋・天文/旧暦8月14日の夜、またはその月のこと。十五夜を翌日に控えた格別の趣をさす。望月に満たないので小望月ともいう。


待宵やひとの赤子のうすまぶた  星野麥丘人


大きな瞳がよく動く赤ちゃん。眠っていても、ぷっくりとしたまぶたが愛らしい。

月明かりはそのうすいまぶたを通りぬけて、赤ちゃんの夢をやさしく、しずかに照らしているよう。

ああ、この子がわたしのほんとうの子であったなら。

月は刻々と動いていくけれど、いつまでも夢からさめずに、このままでいてほしい。


星野麥丘人(ほしのばくきゅうじん)1925-2013年。東京生まれの俳人。石田波郷石塚友二に師事。「鶴」主宰。




颱風(たいふう)

仲秋・天文/北太平洋西部の熱帯海上、北緯5~20度付近に発生する熱帯低気圧で最大風速が毎秒17.2メートル以上に発達したものをいう。夏から秋にかけて暴風雨をともなって日本や東アジアを襲い、甚大な被害をもたらすことがある。


颱風一過女がすがる赤電話  沢木欣一


台風一過のぬけるような青い空の下、たばこ屋の赤電話で受話器を耳にあてている女。

通じないのか不安げな表情で黙っている。

強い風に体をもっていかれそうになり、とっさに赤電話につかまるような恰好に。

本当にすがりつきたいのは電話回線だけでかろうじてつながることのできる相手の男なのに。

噛みしめるくちびるは濃く塗られた赤で、ハイヒールはてらてらと赤く光っている。


沢木欣一(さわききんいち)1919-2001年。富山県生まれの俳人。加藤楸邨中村草田男に師事。「風」を創刊・主宰。社会性俳句を推進した。



高きに登る(たかきにのぼる)

仲秋・人事/中国の古俗。9月9日に、茱萸ぐみを入れた袋をもって高いところに登り、邪気をはらい長寿を願う。


亡びたる城の高きに登りけり  有馬朗人


地元に戦国期の山城がある。強大な大名が支配する国境に位置し、戦略的に重要な城だったようだ。いまでも曲輪や土塁、竪堀、堀切などの遺構が確認できる。

山頂からは広大な関東平野が望め、その反対側に連なる濃淡ある山々の景色がうつくしい。

この城は秀吉の小田原攻めのとき徳川勢に包囲され、すぐに降伏・開城したらしいが、城兵たちはどんな思いで山を下りたのだろう。城は歳月とともに朽ち果てても、うるわしい山なみは彼らが目にしていたのと変わらないはずである。

この句でも、作者はかつて兵どもが戦った城であった山に登っている。だが、中国のしきたりに従って高きに登っているのなら、長寿を願ってのことであり、「亡びたる城」は決してふさわしい場所とはいえないだろう。そこにおもしろさがある。

人間なんてどうあがいたって100年生きられるかどうか、亡びぬ者はいないのさ。それでも高きに登ってみたりするのがまた人間らしくもあるかと、そこにあるのは嘲りよりはむしろ達観の末にある愛おしむ心か。


有馬朗人(ありまあきと)1930-2020年。大阪府生まれの物理学者・政治家・教育者・俳人。山口青邨に師事。「天為」を創刊・主宰。多くの海外詠がある。



新涼(しんりょう)

初秋・時候/暑い夏に感じられる涼しさではなく、秋に入ってからの待ちこがれていた涼気をいう。


新涼や尾にも塩ふる焼肴  鈴木真砂女


真砂女さんにお会いしたことがある。

背筋がぴしッと伸びていてスニーカーをはいていた真砂女さんは、老紳士に言い寄られて困惑していた。

そんなへんてこな夢をみたのには思い当たる理由があるのだけれど、眠る前にインプットされたいろんな情報が断片的につなぎあわされて勝手に出来上がる夢って、やっぱり不思議だ。

『お稲荷さんの路地』という随筆を読んだことがある。「卯波」でいきいきと働く80代の真砂女さんが、俳人らとの交流、思い出や日常のできごとなどを明るい筆致でつづったものだ。

こういっては失礼だが、そんな高齢女性の書き物を読んだ経験はなかったのだけれど、文体が老人くさくないし、好奇心旺盛で仕事にも意欲的で、とてもアクティブなことに驚いた。

銀座のレストランで一人でビールとステーキを堪能し、ぶらぶら歩いて入った映画館で新作映画に心を動かされたりする真砂女さん、なかなかかっこいいではないか。

食べることは生きること。生きることは食べること――。

暑い夏をなんとかやりすごして、やっとひと息つける涼しさにたどり着いたよろこびが、この一句にはある。

頭から尾まで魚をまるごとおいしくいただく。ひとつの命が別の命へとつながって、生かされていく。

肴と酒と集いくる仲間たちに囲まれた真砂女さんの幸福そうな笑みが見える。


鈴木真砂女(すずきまさじょ)1906-2003年。千葉県生まれの俳人。久保田万太郎安住敦に師事。東京・銀座で小料理屋「卯波」を経営、俳人や作家らが集った。