行く年(ゆくとし)

仲冬・時候/過ぎ去りゆくこの一年を思い、惜しむ。


逝く年の水が水追ふセーヌかな   鍵和田秞子  


辻仁成という男がいる。

私は十代のころ、ECHOESの音楽や深夜のラジオ放送、そして小説や詩を通して彼に励まされ、助けられて生きていた。

今年、体調をくずし、心身ともに自分でもどうしたらよいのかわからない、操縦不能の状態におちいった。そんなとき、私はネット上で仁成(あえて、じんせいと呼ぶ)に再会した。

じんせいのツイッターや日記に励まされ、ひとりで泣いたり、笑ったり、そうだそうだと共感の声をあげたりした。

じんせいが、セーヌの船の上でギターを抱え、あの独特のちょっとかすれた繊細でかつ力強い歌声をひびかせている!

私はまたじんせいに救われたのだ。感謝しかない。 

じんせいは、若いころから生と死について真剣に考えてきた人だ。

人は生まれた瞬間から死に向かって歩んでいる。100年後にはほとんどみなこの世から消え去ってしまう。

なぜ、人はこの世に生まれ、苦しみながらも死ぬまで生きつづけなければならないのか。

じんせいに再会していなかったら、私はいまもっともっと苦しかったように思う。

「死にたいと思ってもいいから、生きよ」とじんせいはいう。

セーヌの流れは、それをながめている人が死んだところで止まりはしない。人が死んでも、セーヌは滔々と流れつづける。

一年をふりかえり、新しい年にささやかな希望を見出そうとする人の想いをのせて、セーヌは流れつづける。

二十代のころたしかにこの目で見たあの川は、いまこのときもあの街で生きつづけている。

いまの自分がながめたら、セーヌはどんな表情をしているように見えるのだろう。


鍵和田秞子(かぎわだゆうこ)1932-2020年。神奈川県生まれの俳人。中村草田男に師事。




私のこの拙い俳句鑑賞を読んでくださった方々へ、こころより感謝申し上げます。

私にとって俳句はどんなつらいときでも、大きなこころの支えになってくれる、永遠の友です。

これからもたくさん読み、少なくではあっても詠みつづけていきたいと思っています。

このブログはいったんお休みします。再開できることを願いつつ。


みなさま、どうぞご自分の心身を労わって、よいお年をお迎えください。





猩々木(しょうじょうぼく)

仲冬・植物/ポインセチアの和名。トウダイグサ科のメキシコ原産の常緑低木。花をとりまく大きな苞葉が赤やピンク、白に色づきうつくしい。温室で栽培され、クリスマスが近づくころに鉢物や切り花として出回り、目をひく。


時計鳴り猩々木の緋が静か  阿部筲人 


街の裏通りにある古本屋。老いた店主が居眠りしている。

ふいに時を告げる柱時計が三つばかり鳴った。

店主は涎をすすりながら顔を上げ、眼鏡を指先で押し上げて店内を見まわす。

ほこりくさい色あせた本たちが床から天井までぎっしりとつまった狭い店内に、客の姿は一人もない。

柱時計の振り子の音と、石油ストーブの上のやかんが湯気をたててカラカラ鳴るかすかな音がきこえるばかり。

店主の座るレジの脇に置かれた猩々木の緋色の葉が、静かであればあるほど、よりあざやかに濃く色づいていくかのようだ。


阿部筲人(あべしょうじん)1900-1968年。東京生まれの俳人・三省堂勤務。「好日」を創刊・主宰。