復活祭(ふっかつさい)

晩春・宗教/処刑されたイエスの復活を記念する祝祭。春分のあとの最初の満月直後の日曜日。


黒土に鉄骨植ゑぬ復活祭  香西照雄


黒々としていかにも栄養のたっぷりとつまったような地面に、いま太い鉄骨が建つ。

もちろん鉄骨に栄養など必要のないものだが、「植ゑぬ」とみた作者は、ビル建築の印象的な第一歩を、その鉄骨の一本に強烈に感知し、若木が根を張りたくましく成長して花を咲かせ、虫や鳥を呼びよせ、新鮮な風を吹かせるように、やがて完成したビルが人を集め、まちに活気がもどる未来を思い描いたのではなかろうか。

災害の絶えないこの国では、壊れたものをとりのぞき、更地にして、また新たなものを築くことで復興をくり返してきた。

屹立する鉄骨は十字架の暗喩であるとともに、連綿とつづいていく生命の復活を象徴するものとしてあるように思えてくる。


香西照雄(こうざいてるお)1917-1987年。香川県生まれの俳人・成蹊大学講師。中村草田男に師事。


鞦韆(しゅうせん)

三春・人事/ぶらんこ。子供たちが楽しげにぶらんこを漕ぐ姿はいかにも春らしい。


鞦韆を漕ぐとき父も地を離る  鷹羽狩行


父親たるもの常にどっしりと両足を地につけ、何があっても動じない。すべてはわが子を守るため。

そうみずからに言い聞かせなくてはならないのは、本当は気の弱い未熟者だから。

児童公園で子供とならんでぶらんこに乗った。こうやって漕ぐんだぞ。

こんなに勢いよく漕ぐのはいつ以来だろう。実に爽快だ。

もっと大きく、もっと高く。ぶらんこを降りて父に戻るまでの、つかのまの解放感。


鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)1930年、山形県生まれの俳人。山口誓子に師事。「狩」を創刊・主宰。


春宵(しゅんしょう)

三春・時候/春の日が暮れてまもないころ。明るくつやめいていて感傷をさそう。


春宵やナプキン立てて予約席  長岡きよ子


「人生で起こることは、すべて、皿の上でも起こる」(『王様のレストラン』)。

始まりより終わりを詠むと佳句になると学んだけれど、この句のワンカットはすてきだ。

どんな人が現れて、どんな料理が並べられ、どんな会話がなされるのか。

客は一人かもしれないし、夜がふけてもナプキンが立てられたままということだってありうる。

厨房にいるシェフは絶好調かもしれないし、自信喪失気味かもしれない。あるいは無断欠勤で急遽代役にあたった見習いが奮闘しているのかもしれない。

厨房と客とをつなぐ皿だけが、今夜のすべてを知っている。

これから始まる物語を予感させるレストランの春宵のひととき。

またあのドラマが観たい。


うらら

三春・時候/春の日が明るくうるわしく照っているさまをいう。


春うららちりめんじゃこが散り散りに  坪内稔典


ご飯にかけようとしたら手元がくるって、食卓に散らばってしまったちりめんじゃこ。

あーあ、やっちゃった。

ちいさな失敗にもいらだってしまいがちだけれど、きょうはなんだか愉快、愉快。

季語「うらら」に春をくっつけて、こんなに春うららなんだから、そりゃちりめんじゃこだって散り散りになるさって笑ってる。

「うららかや」では出せないかろやかさ。

こんな心がころがるような句ができるのも、うららかな春だから。


坪内稔典(つぼうちねんてん)1944年、愛媛県生まれの俳人・国文学者。伊丹三樹彦に師事。


春の星(はるのほし)

三春・天文/春の空にうるむように見える星。あたたかさやなつかしさを感じさせる。


盛り場の裏くらがりに春の星  福田蓼汀


いきなりがつんと一発やられた。後頭部だ。

ふり返ることもできず、うずくまった。

奴にちがいない。油断した。裏道に入ったのがまずかった。

これ以上深入りするなという警告のつもりだろう。

ゆっくり立ち上がると意識が遠のいて仰向けに倒れた。

次に目を開けたとき、なにかぽつんと淡い光が見えた。星か。

しずかに上半身を起こす。頭ががんがんする。酒のせいか。いや、殴られたんだった。

見上げた空には、たしかに星がひとつある。

あいつの部屋からも見えているだろうか。あいつなら黙って一晩泊めてくれるだろう。

千年もためこんでいたみたいな大きな息を吐き出してから、ふらつきながらも、俺はネオンサインのごちゃごちゃした通りに向かって歩きはじめた。


福田蓼汀(ふくだりょうてい)1905-1988年。山口県生まれの俳人。高浜虚子に師事。「山火」を創刊・主宰。多くの山岳俳句を詠んだ。 


石鹸玉(しゃぼんだま)

三春・人事/ストローの先に石鹸水をつけ、息を吹き込んでふくらませる遊び。


鉄格子からでも吹けるしやぼん玉  平畑静塔


早くここから出たい。あたしはどうしてこんなところに閉じ込められているんだろう。

鉄格子の間から放たれたしゃぼん玉は風にのってぐんぐん病院の庭を遠ざかっていく。

あの公園にいる目の大きな女の子。

あたしには娘がいるはずだ。きっとあの子だ。なぜ、あそこに行って一緒にしゃぼん玉ができないんだろう。

早くここから出たい。

いつだったか、しゃぼん玉を二人でつくって、たくさん飛ばしたことがあったような気がする。

いや、ちがう。女の子はあたしだ。あたしがしゃぼん玉を吹く横で、じっとあたしを見つめてる女の人はだれ?

しゃぼん玉がどんどん増えて、あたしの周りをぐるぐるまわって、もう女の人はいるのかどうかわからない。わからない……。

ねえ、先生。あたしはどこも悪くない。早くここから出たいだけ。

あの、虹色のきれいな大きなしゃぼん玉になって。


平畑静塔(ひらはたせいとう)1905-1997年。和歌山県生まれの俳人・精神科医。


蓬餅(よもぎもち)

仲春・人事/ゆでた蓬の葉を餅につき込んでつくる。きな粉をまぶしたり、餡を包んだりして食べる。


人当たり柔らかく生き蓬餅  岩城久治


地位も名誉も富もない。ただ人には常にやさしく接してきたつもりだ。この蓬餅みたいに地味な人生だけれど、なにも恥じ入ることはない。

すぐにだれかを批判したり、攻撃的になったりする人だって、こうやって土手にすわって春の川や雲などながめながら、お茶を片手に蓬餅を食べてみたらいい。

清々しい蓬のかおりに心も体も解きほぐされていくよ。


岩城久治(いわきひさじ)1940年、京都府生まれの俳人。水原秋櫻子に師事。



北窓開く(きたまどひらく)

仲春・人事/寒さを防ぐため冬のあいだ閉めきっていた北側の窓を開けること。


北窓を開け父の顔母の顔  阿波野青畝


長く入院していた父が死んだ。冬の間は寒々しくてなにもする気がおきず、そのままにしていた父の寝室に入り窓を全開にした。もうつめたい北風が吹きこむことはなく、やわらかな外気が鼻先にゆらぐ。

広場で子供たちが声をあげながら、ボールを追って駆けまわっているのが見える。

いい天気だ。桜並木に花見の人が集まってくるのももうすぐだろう。

自分の部屋からも毎年花見ができるといってこの家を気に入っていた父。母も同じことをいっていたっけ。いまごろ再会した母とどんな話をしているのか。

今年はこの部屋に二人の写真をならべて、一緒に花見でもしてみるかな。


阿波野青畝(あわのせいほ) 1899-1992年。奈良県生まれの俳人。高浜虚子に師事。水原秋櫻子、山口誓子、高野素十らと「ホトトギス」の黄金時代を担った。「かつらぎ」を創刊・主宰。


鶯(うぐいす)

三春・動物/別名「春告鳥」。初めおぼつかない鳴き声は、春がたけるにつれ美しくなる。


雨見えてくるうぐひすのこゑのあと  山上樹実雄


きょうは調子がいい。執筆がはかどる。しずかな雨のせいだろうか。

いまどき升目の入った原稿用紙に青インクの万年筆でちまちま文字を書きつける奴など、まずいなかろう。だがわたしは、あのキーボードとやらをぽちぽち打つ気には到底なれぬ。

あの音が耳ざわりだ。この書斎でいま聞こえるのは、朝からふっている雨のやわらかな音だけ。

ちょうどきりのいいところまで書き上げたとき、窓の外から鳥の声がした。

一瞬気のせいかと思ったが、耳をすませるとまた一声、まちがいない、鶯だ。

わたしは机の前の大きな窓から庭を見下ろした。さほど広くもない庭には、わたしの趣味で種々雑多な木が植えてある。勝手に生えてきたものもある。

どの木にやってきたのだろう。雨だというのに。

しばらくじっと目をこらしてみる。動くものは見つからない。もう飛び去ってしまったのか。

さっきより小降りになったのか、空は明るく、無数の雨つぶが一本一本の線となってはっきりととらえられる。

雨が天から落ちてくるものだという当たり前のことに、その当たり前の雨の姿に、わたしはなぜか心を動かされた。

天の使者となった雨つぶたちが、季節がうつろってもまだ目のさめきっていない庭に、もう春だぞ、起きる時間だぞと声をかけているかのようだ。

鶯の行方が気にかかりながらも、わたしは飽きもせず雨をながめつづける。


山上樹実雄(やまがみきみお)1931-2014年。大阪府生まれの俳人・眼科医。水原秋櫻子・山口草堂に師事。