蠅取リボン(はえとりりぼん)
梔子の花(くちなしのはな)
仲夏・植物/梔子はアカネ科の常緑低木で暖地に自生。庭木として多くの園芸種がある。6~7月、芳香の強い白色の一重または八重の花を咲かせる。
くちなしの花びら汚れ夕間暮 後藤夜半
生家の庭にはけっこういろんな木があったけれど、梔子ほど香りの強い花を咲かせるものはなかったと思う。鼻を近づけて、花弁に黒いちいさな虫がたくさんうごめいているのにのけ反った子供時分を思い出す。
ひらいたばかりのものはまさに純白の華やかさがあるものの、雨の多い季節に咲くせいか、すぐに黄ばんで見苦しくなってしまう。残念というか、なんだかかわいそうな花である。
明るい光のもとではなく、夕方のうす暗さに花びらが「汚れ」ているのを見た。一日を終えようとする人の疲労感が甘い香りににじんでいるような気がしてくる。
後藤夜半(ごとうやはん)1895-1976年。大阪府生まれの俳人。高浜虚子に師事。「諷詠」を創刊・主宰。
五月闇(さつきやみ)
仲夏・天文/五月雨がふるころの月の出ない夜の暗さをいう。この時期の厚い雲におおわれた日中の暗さをさすこともある。
すり寄りし犬の肋や五月闇 川崎展宏
静かな雨のなか、仕事から帰ると庭へまわって、シロの様子を見にいく。
暗闇に白いかたまりが動いたのでほっとする。
ゆっくり立ち上がり小屋から出てきたシロは、しゃがんだわたしに身を寄せ、甘えるような目を向けてくる。
頭を撫ぜ、背中をさすってやる。日に日に肉が落ち、肋は浮き出ている。
ぱらぱらと傘にあたる雨つぶの音と、シロのかすれた呼吸音。
せめて、あしたは晴れてくれないかと切に思う。
川崎展宏(かわさきてんこう)1927-2009年。広島県生まれの俳人・国文学者。加藤楸邨に師事。「貂」を創刊・主宰。
夏至(げし)
仲夏・時候/二十四節気の一つ。6月21日頃。北半球では太陽が一年で最も高い位置にあり、昼がいちばん長い。
地下鉄にかすかな峠ありて夏至 正木ゆう子
あ、いま下ってるな、と地下鉄に揺られながら感じたことがある。
「峠」だから、上って下る、その勾配に気づいた作者。だんだん昼が長くなってまた短くなっていく境となる「夏至」のイメージとそれは重なり合う。
昼が短くなるといっても、それは毎日感じとれないほどの微小な変化であり、地下鉄の勾配もまただれもが認識するほど大きなものではなくて、「かすかな」の一語がまったく異質な二つのものをつなぎとめている。
本格的な夏の到来――強烈な陽ざし――を思わせる夏至を、外光の射さない地下鉄でとらえている妙は、仮に季語が「冬至」だとしたら失われてしまう。
「地下鉄」「峠」「夏至」。一見バラバラなことばたちは、一本のやわらかな感性の糸で結ばれている。
正木ゆう子(まさきゆうこ)1952年、熊本県生まれの俳人。能村登四郎に師事。
白夜(びゃくや・はくや)
仲夏・時候/夏至前後、北極または南極付近で、夜になっても散乱する太陽光のために薄明が長時間つづく現象。
街白夜王宮は死のごとく白 橋本鶏二
かつてイングランドの田舎町で過ごした夏、パブで飲んだ帰り、もう11時近いのに自転車で走る牧草地の西の空が明るくて奇妙だった。
昼はたしかに去ったものの、夜になりきれないままの不思議な時間。
短い夏をすこしでも満喫しようと遅くまで出歩いていた人々も、さすがにもう眠りについたか。
この世とあの世のあわいにあるような静まりかえった街に、妖しく白くぼんやりと浮かぶ王宮。
人は死してもどこかに痕跡を残すように、その白は闇に沈みきることはなくて、やがてまた朝の陽に堂々たる姿をあらわすことだろう。
橋本鶏二(はしもとけいじ)1907-1990年。三重県生まれの俳人。高浜虚子に師事。「年輪」を創刊・主宰。
釣堀(つりぼり)
三夏・人事/天然の池や河川の一区画、もしくは人工の池などに鯉や鮒を放し、料金をとって釣らせるところ。
釣堀の四隅の水の疲れたる 波多野爽波
小学生のころ一時期、父や兄と近所の釣堀によく行った。屋内に銭湯の浴槽みたいなのがいくつかあって、おじさんたちが黙って釣り糸を垂らしていた。
照明は暗く、水は濁っていて鯉の姿はよく見えないし、満腹なのか警戒しているのか、なかなか餌に食いつかない。たまにでかいのがかかると、派手に水音をたてて暴れたりして、うれしいくせに恥ずかしかった。
きれいな色のが釣れたら持ち帰って飼うつもりもあって、けっこう気合いは入っていたと思う。
あそこにいたおじさんたちは日曜の午後、家にいても退屈だし、暇つぶしに浮きをながめにきていただけかもしれない。
釣れるかどうかより、あしたがまた月曜日であること、ここの鯉はいつまでこんなところに閉じ込められているのかということ、そんな疲れた思いをよどんだ隅っこの水面にぼうっと映していた人がいなかったとは言い切れまい。
波多野爽波(はたのそうは)1923-1991年。東京生まれの俳人。高浜虚子に師事。「青」を創刊・主宰。
蛇(へび)
三夏・動物/縄のように長い爬虫類。蝮やハブなどを除き、ほとんどは無毒。冬眠のあと春に穴を出て活動し、水面を走ることもある。
空に弧を描きて蛇の投げられし 林徹
これ、どんな状況よ?
スローモーションのような映像は気持ちわるいくらい生々しく鮮明だけれど、どうも状況がねえ。
たとえば、子供が蛇がいるから怖くて歩けなくなったところ、野性味たっぷりの父親がえいやッとばかりに放り投げてやったとか?
私の祖母は、私が庭にいた蛇に声をあげ指さしたとき、罰があたるからといってその指をサンダルでそっと踏んだことがある。至極まじめな顔つきで蛇は神様だからね、指が腐るよといったが、指を足で踏むという行為とそれで腐らずにすむという論理が、子供心にもいかにも滑稽に思われた。まあ、踏んでもらってほっとしたのも事実だけれど。
この句は「投げられし」とぶっきらぼうにいったところに、悪いことなどしていないのに、ただ蛇だってだけで嫌われてしまう哀れっぽさが漂っていて、そこが好き。祖母なら、その暴挙に卒倒してしまっただろうけれど。
林徹(はやしてつ)1926-2008年。中国山東省生まれの俳人・医師。沢木欣一に師事。「雉」を創刊・主宰。
梅雨に入る(つゆにいる)
仲夏・時候/6月初旬から中旬にかけて、夏の特異な雨季である梅雨に入ること。
水郷の水の暗さも梅雨に入る 井沢正江
水郷というと母の生地を思う。地名にもその字がついており、大きな川に沿ってひらけた景色のよい明るい集落だ。
いまはもうないが、そこに江戸初期に建てられた古い家があって、祖先が代々暮らしていた。
柱の太い家の奥は晴天でもうす暗かったのを憶えている。梅雨の季節ともなれば、連日その暗さをうっとうしく思いながら生活していたことだろう。
この句は直接には暗い梅雨空の下の景色を詠んでいるけれど、「水の暗さも」の「も」に、これからひと月ばかり陰鬱な日々を耐え忍ばなくてはならない人々の息づかいが感じられる。