蜩(ひぐらし)

初秋・動物/明け方や夕暮れに涼しげな澄みきった声で鳴く。寂寥感もあり、秋のものさびしさに通ずる。


ひぐらしをきく水底にゐるごとく  木内怜子


いつだったか、伊豆の修善寺を散策していたとき、夕刻だったと思うが、かなかなの鳴き声におぼれそうになったことがある。

指月殿あたりだったか、あっちからもこっちからも、それこそ水がわきでるように、その清澄な声があふれかえって、身も心もひたってゆくようなすばらしい体験だった。

まさにあの時間、私は水底にいて蜩をきいていたんだなと思う。

とてもシンプルな句だけれど、「水底」以外のひらがな表記が、水の透明感――蜩の声のうつくしさ――を素直に伝えてくれる。


木内怜子(きうちれいこ)1935年、神奈川県生まれの俳人。秋元不死男鷹羽狩行に師事。夫・木内彰志のあとを継ぎ「海原」を主宰。


 

カンナ

初秋・植物/熱帯アメリカやアフリカ原産の球根植物。高さ1~2メートル、葉は大きく、太い茎の先に赤、ピンク、オレンジ、黄などあざやかな色の大ぶりの花をつける。花期は7~11月頃と長い。


ピアニカを吹く緋のカンナ黄のカンナ  丹沢亜郎


こういう句に出会うと、俳句は韻文である、意味でつくるものではないということをあらためて教えられる。

音楽の宿題なのか、子供が一心にピアニカを吹きつづけている。同じところでつっかえてしまうので、何度も何度もくりかえし、くりかえし吹いている。

窓の外には派手な色合いの大きなカンナの花がいくつもならんでいる。

炎天下でも衰えない逞しいカンナと、太くて力強いピアニカの音色がいつまでもひびきあう。


丹沢亜郎(たんざわあろう)1949-2019年。俳人・ライブハウス経営者。石寒太に師事。




枝豆(えだまめ)

三秋・人事/まだ熟しきっていない青い大豆を茎ごと収穫したもの。さやのまま塩ゆでして豆を食べる。ビールのつまみの定番。十五夜に供えるので月見豆ともいう。


枝豆を真青に茹でて一人とは  梶山千鶴子


最初、「一人」を独身という意味にとって、仕事に明け暮れるビール党の女性の自嘲気味の句と思ったのだけれど、月見豆という枝豆の別の顔を知るや、ちがった場面が浮かんできた。

去年までは夫と二人、月見をしながらビールを酌み交わし、テーブルには茹でたての枝豆があった。それが、今年はその相手がいないのだ。

月のようにかがやくビールの琥珀色、生命力あふれる枝豆の青々しさ。

一人しずかにさやをぷちぷち押しつぶして口にする枝豆は、しょっぱさと甘さがほどよくてこんなにもおいしいのに、一人には多すぎるよ。


梶山千鶴子(かじやまちずこ)1925-2013年。京都府生まれの俳人。多田裕計に師事。「きりん」を創刊・主宰。 




白木槿(しろむくげ)

初秋・植物/木槿は中国・インド原産のアオイ科の落葉低木。7~9月頃、直径5~15センチの五弁花を枝先に次々とひらく。花色は白やピンク、赤など。早朝に咲いて夕方しぼむので、はかないもののたとえにもなる。韓国の国花。


亡き父の剃刀借りぬ白木槿  福田蓼汀


「借りぬ」がこの句の肝だろう。

父はもう亡いのだから剃刀を使ったとしても返す必要などあるはずがなく、単に「使う」でいいはずなのに、それをあえて「借りぬ」といったところに残された息子の思いすべてがこめられているのではないか。

鏡に映る髭面の男が父の剃刀をいままさに肌にあてた。じょりじょりとする感触。ひりつく痛み。かすかに血がにじみ出る。

生きているかぎり髭は剃ってもまた生えてくる。

庭に咲く白木槿は夕暮れにはしぼんでしまうけれど、あすの朝にはまた新たなつぼみがほころぶだろう。その一輪に出会えるのは、今日という一日を生ききってこそなのだ。


福田蓼汀(ふくだりょうてい)1905-1988年。山口県生まれの俳人。高浜虚子に師事。「山火」を創刊・主宰。多くの山岳俳句を詠んだ。





天の川(あまのがわ)

初秋・天文/天の川銀河の無数の恒星の集団で、帯状に夜空を大きく横切るように見える。8月に天頂にかかる。


天の河落ちんばかりに鬼太鼓  三嶋隆英


鬼太鼓は新潟県佐渡地方の民俗芸能。鬼や獅子、笛、太鼓などの一団が五穀豊穣や家内安全などを祈りながら家々の玄関先で悪魔を払う神事。120あまりの集落でそれぞれ独自の鬼太鼓があり、春と秋を中心に行われる。朝から晩まで一日中踊りつづけるハードな集落もあるらしい。

いまは動画でもすぐに観ることができるけれど、この句のよさを味わうにはやっぱり現場に立ってみたい。

天の川をながめて星たちが落ちてきそうと思うのはいかにも凡庸。

この句は鬼太鼓をもってきて、島の夜空をふるわせる太鼓の音はもちろん、飛んだり跳ねたり一心不乱に舞う激しい鬼の動きを想像させることによって、壮大で神秘的な季語「天の川」を描き出しているのに心惹かれる。


三嶋隆英(みしまりゅうえい)1928-2011年。広島県生まれの医師・俳人。水原秋櫻子・山口草堂に師事。「風雪」を創刊・主宰。






盆支度(ぼんじたく)

初秋・人事/盆に先祖の霊を家に迎える準備のこと。墓掃除や仏具みがきのほか、盆棚にしく真菰を用意したり、野菜や果物など供え物をそろえたりする。


亡き妻のすでに来てをり盆支度  森澄雄


生前、家のこと、身の回りのこといっさいを担っていた妻と、仕事ばかりでほかのことには無頓着だった夫。

亡き妻の新盆だというのに、なにから手をつけてよいのか皆目わからない。頼むからもどってきてくれと叫びたい気分。

いや、待てよ。あいつのことだから、きっと心配で矢も楯もたまらず、なんの準備もできていないのに、もううちに帰ってきているんじゃないか。

まいったとばかりに苦笑いして頭をかく夫。おかしみのあとに、じんわりとひろがる悲哀。


森澄雄(もりすみお)1919-2010年。兵庫県生まれの俳人。加藤楸邨に師事。「杉」を創刊・主宰。



立秋(りっしゅう)

初秋・時候/二十四節気の一つ。8月7日頃。暑さはきびしいが、朝夕の風や流れる雲などに秋へ向かう気配を感じる。


立秋や鏡の中に次の部屋  辻田克巳


歳時記をめくっていて気になった一句なのだけれど、これはどんな場面なのだろう。

いつもの見慣れた家の部屋が鏡に映っているのを見るとどこか違和感があって、その感覚が、きのうと変わらぬ暑さのつづくきょうが立秋と気づいたとたん、どこかしら季節の変化を感じてしまう気分とひびきあうのかなあ、と思ったのだが、「次の部屋」という表現がどうもひっかかる。

記憶のなかからさぐりあてたのは、むかし行ったベルサイユ宮殿の部屋だ。

鏡の間ではあまりのくどさに気分がわるくなりそうだったが、あの回廊でなくても、部屋のなかに巨大な鏡が設えてあって、「次に進むべき部屋」がそこに映し出されているのを見たような気がする。

現実の次の部屋は反対側にあるのに、あたかも鏡の平面の向こう側に部屋がつながっているようにみえる不思議。鏡のつめたいイメージのせいか、立っている場所とは部屋の空気がちがっているようにも思える。

そっちの部屋にそっと足を踏み入れたなら、季節はもう次の秋へと移ろっているのかもしれない。


辻田克巳(つじたかつみ)1931年、京都府生まれの俳人・中学高校教員。山口誓子秋元不死男に師事。「幡」を創刊・主宰。




夏終る(なつおわる)

晩夏・時候/登山、海水浴などのシーズンが去りゆき、惜しまれる。


泉の底に一本の匙夏了る  飯島晴子


こんなところになぜこんなものが、という発見をすることがある。

避暑地の泉だろうか。澄んだ水底に光る銀の匙。

落ちてしまったのか、投げ捨てたのか。すくおうとしていた、あるいはすくったものはなんだったのか。

ここに間違いなくだれかがいたひとつの痕跡。終わってしまった夏の物語。

銀色のちいさなきらめきは、夕映えを最後に、徐々につめたくなっていく水の底で、もうだれの目にもとまることはない。


飯島晴子(いいじまはるこ)1921-2000年。京都府生まれの俳人。能村登四郎に師事。




夜の秋(よるのあき)

晩夏・時候/晩夏、夜になるとどことなく秋の気配がただようこと。一抹のさびしさを感じる。


オペラ座の裏窓ひらく夜の秋  市ヶ谷洋子


若いころ欧州大陸をうろついていた夏、ウィーンで『エリザベート』というミュージカルを観た。劇場で本格的なミュージカルなど初めて。ウィーンといえば芸術の都でしょ、という短絡的な思考が丸見えなのだが、これが大当たりだった。

劇中のドイツ語はむろん全然わからない。わからないのだが、次第にひきこまれてエリザベートの世界にどっぷりつかりはじめると、これが不思議と「わかる」ようになってくるのだ。

劇場全体を揺るがすようなダンスと音楽の迫力に胸がふるえ、まるで歌うためにあるようなドイツ語の響きのうつくしさに涙さえ出そうになった。

エリザベートという一人の高貴な女性の感情が、私の全身に、場面場面で、ときに力強くなだれ込み、ときに儚げにしみ込んでくるようだった。

四半世紀たったいまもなお、あの夜の感動は胸のどこかに埋火のようにして残っている。


観客の拍手が鳴りやまぬなか、歌い手が帰ってきた楽屋。興奮さめやらぬ一人が窓を開けた。

ほてった肌に夜気が気持ちいい。贈られたゴージャスな花束に顔を寄せると、動悸がしだいに鎮まってきた。

オペラ座の裏通りを歩くわたしは、窓の灯に人影が動き、ガラス戸がひらくのを見て、そんな想像をしてみる。

さっき幕が下りたはずの虚構の世界を、わたしはまださまよっている。音楽が、歌声が、頭のなかでぐるぐるとまわりつづけているのだ。この時間を終わらせたくない。

現実の世界では、窓明かりと暗い街灯をたよりに石畳を踏んでゆくわたしの靴音だけが、やけに大きくこだましているだけなのだろうけれど。


市ヶ谷洋子(いちがたにようこ)1958年生まれの俳人。