晩夏・時候/晩夏、夜になるとどことなく秋の気配がただようこと。一抹のさびしさを感じる。
オペラ座の裏窓ひらく夜の秋 市ヶ谷洋子
若いころ欧州大陸をうろついていた夏、ウィーンで『エリザベート』というミュージカルを観た。劇場で本格的なミュージカルなど初めて。ウィーンといえば芸術の都でしょ、という短絡的な思考が丸見えなのだが、これが大当たりだった。
劇中のドイツ語はむろん全然わからない。わからないのだが、次第にひきこまれてエリザベートの世界にどっぷりつかりはじめると、これが不思議と「わかる」ようになってくるのだ。
劇場全体を揺るがすようなダンスと音楽の迫力に胸がふるえ、まるで歌うためにあるようなドイツ語の響きのうつくしさに涙さえ出そうになった。
エリザベートという一人の高貴な女性の感情が、私の全身に、場面場面で、ときに力強くなだれ込み、ときに儚げにしみ込んでくるようだった。
四半世紀たったいまもなお、あの夜の感動は胸のどこかに埋火のようにして残っている。
観客の拍手が鳴りやまぬなか、歌い手が帰ってきた楽屋。興奮さめやらぬ一人が窓を開けた。
ほてった肌に夜気が気持ちいい。贈られたゴージャスな花束に顔を寄せると、動悸がしだいに鎮まってきた。
オペラ座の裏通りを歩くわたしは、窓の灯に人影が動き、ガラス戸がひらくのを見て、そんな想像をしてみる。
さっき幕が下りたはずの虚構の世界を、わたしはまださまよっている。音楽が、歌声が、頭のなかでぐるぐるとまわりつづけているのだ。この時間を終わらせたくない。
現実の世界では、窓明かりと暗い街灯をたよりに石畳を踏んでゆくわたしの靴音だけが、やけに大きくこだましているだけなのだろうけれど。
市ヶ谷洋子(いちがたにようこ)1958年生まれの俳人。